戦後、女性初の裁判官になった三淵嘉子は、28歳で結婚し子どもも出産した。三淵の評伝を書いた青山誠さんは「猛勉強の末、男子でも取得が難しい弁護士資格を取った嘉子は、縁談では敬遠されたらしい。周囲にいた男性の中から人柄の良い元書生が選ばれて結婚するが、太平洋戦争が始まり、それまでのような豊かな暮らしはできなくなってしまう」という――。

※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

新潟家庭裁判所長時代の三淵嘉子、1972年6月14日
写真=時事通信フォト
新潟家庭裁判所長時代の三淵嘉子、1972年6月14日

弁護士資格を取得した嘉子は、その直後に結婚した

何事にも真っ先に飛び込む積極性、周囲を巻き込んで突き進む。嘉子よしこは、学生時代にはパワーあふれる言動から“エネ子さん”と呼ばれていた。法曹界でもそんな彼女の姿が見られるようになるまでには、もう少し時間がかかる。

また、弁護士資格取得後の嘉子の関心事は、仕事と別のところにあったようだ。昭和16年(1941)11月に彼女は結婚している。結婚に伴う準備には多くの時間とエネルギーを要する。独身から夫婦になれば生活環境も大きく変わるから、どうしても意識はそちらに向いてしまう。

目標ができるとそれに向かって脇目もふらず邁進するのが嘉子の常。それは、ひとつのことしかできないという欠点にもなる。仕事と家庭の両立は難しかったか? 誰もが認める秀才なのだが、案外、不器用な人だったように思える。

「たまたま私自身の結婚や育児の時期に重なったこともあり、弁護士活動は開店休業の状況になってしまった」

著書『女性法律家』の中でもこのように語っている。弁護士活動の低調は時代の状況や仕事へのモチベーションにくわえて、こうした事情が大きかった。

女性が仕事と家庭を両立させるのは難しい。多くの職業婦人がその壁に阻まれ挫折している。それは現代になっても解決されず、嘉子も後にこの問題に取り組んで働くことになる。あるいは、この時の経験から色々と思うところがあったのかもしれない。

結婚願望はあったが26歳の女弁護士に縁談は来なかった

女学校時代には、恋愛や結婚に憧れて友人たちと恋バナに花を咲かせたこともある。弁護士を志すようになってからは、その思いを封印して勉強に没頭してきた。しかし、結婚を諦めていたわけではない「私は結婚しない」などと彼女の口から発せられたことは一度としてなかった。

思いを封印していただけ。目標を達成すれば、その封印も解ける。両親や知人たちも彼女の心境の変化を察し、婿探しに奔走したようだ。

だが、条件の良い縁談話がない。法律を学ぶ女性が「恐ろしい」といわれた時代だけに難しい。また、弁護士の研修を終えた時にはすでに26歳になっていた。当時、女性の結婚適齢期は23歳頃。それにくわえて、日中戦争が始まってからは若い男性が次々に召集され、結婚適齢期の男女比はいびつなものになっていた。結婚相手を見つけるのは至難の業だっただろう。